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ウソの国ー詩と宗教(戸田聡)

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2021-04-17 (Sat) 00:11

教条主義

 
 
 
教条は、面倒を見ない。
 
教条化した思想は、面倒を見ない。
 
教条化したイデオロギーは、面倒を見ない。
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。
▷ dogmatism の訳語。
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表している。
 
偽善の多くが、教条主義の所産である。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪である。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人戒律主義に見られる。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、人間のを忘れていた。よって、キリストにとって最悪の敵となったのである。
 
多くの思いは言葉で表される。言葉は伝達のための暗号である。つまり、ダイレクトに思いを伝えているわけではないことを弁えておく必要があるだろう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかである。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになる。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってくる。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってくる。
 
真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指すがけであったり、当為と事実が混同している場合もある。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいない。神を信じている、という意志表示に過ぎない場合がある。神の偉大さを知って信じるのではない、しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはある、などというように、言葉による表現は、曖昧であることが多い。
 
しかし、それは、変えてはいけないと思い込み、同じ言葉に基づいているから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてくる。
 
そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良の所産が、損なわれてゆくといってもよいだろう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともある。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのである。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがある。
 
典型は、やはり、パリサイ人である。また、理屈倒れになって、人間として必要なことを汲み取れないで、慢心して言い張るということもある。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己愛性人格障害として、非人間的な言動が目立つようになる。進行すると、論理性が、辻褄合わせになり、さらに、故意に合わせるために、的外れな理路になったり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、無理を押し通す欲動となって、破綻してゆく。実際は、とても不自然な言動となって表れるだろう。
 
思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくだろう。
 
教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆく。いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになる。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたすことが多いだろう。理路も情緒も深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手のせいにする特徴を持つ。
 
心から、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってくる。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人であるが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような人格の変容を来たしやすいだろう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もあるが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきである。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いと思う。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、人によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いである。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と自己愛性人格障害、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
      人格破壊
           人格破壊
 
(2021年04月17日)
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
(ずっと昔)
 
 
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最終更新日 : 2021-04-17

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