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ウソの国ー詩と宗教(戸田聡)

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2021-04-16 (Fri) 00:08

ヒーロー気取り2

 
  ヒーロー気取り2
 
 事実は一つでも、その感想は人それぞれ異なる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月11日
 
 
まるで、説教壇か山上で教えを垂れるような、しかも全部が空っぽな豪語が結論となっている楽山の排泄です。
 
最近は、「人それぞれ」ということを感じる機会が増えているのだが、本書にもそれらしいことが書いてあった。
同じ事実でも、人が違えばまったく違った感情を呼びさますし、また、同じ人にも、時が違えば違った感情を呼びさますのであるから、同じ事実が相反するような感情的説明を受けることは、明らかである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.228)
 」
これは本当にその通りだ。たとえば、一冊の本の感想は、人それぞれ違うのが当たり前であるし、同じ人でもはじめて読んだ時と、再読では、感想が違っても不思議ではない。いや、むしろ違うのが当然だ。
 
人それぞれ、というのは、シャロームが、妄想信条を語るときに、よく言っていたことです。人それぞれだからと言って、自己中、嘘、妄想、など、邪悪なものを是とする・・なんてことは出来ません。同じ詭弁で言い訳をする楽山です。みすぼらしい限りです。
 
楽山は、本の感想を例に挙げていますが、私は、感想レベルのことを言っているのではなく、常識レベルで、楽山について、おかしいと言っているのです。批判が理解できず、本の感想に喩えるのは、ますます、おかしい楽山を、定評としてルーチン化してゆきます。
 
これは書物だけでなく、絵画、映画、景色、料理…その他さまざまなことでも同じことがいえる。もちろん宗教思想についてもそうだ。一つの宗教思想についてそれを受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。いったん受け入れても、その後で改宗、転向ということもありえる。これが現実である。
 
だから、楽山が受け入れなくても結構、むしろ、受け入れることなど期待していない。むしろ、楽山みたいな人がそのまま来てもらっては困るということです。
 
問題意識が、また、著しく的外れです。楽山は、公共の場で、キリスト教を、無理解であるのに、全然成り立たない理由で否定してきたわけです。それが迷惑だと言っています。
 
常識のある人なら、分かることが、楽山は分からない、というより、我を張って、ますます、話を違う方向に持ってゆくという詭弁です。鼻を突くような悪臭です。
 
こうしてみると、人の心というものは決して定まることのないものであって、少しも当てにならないものだということがよく分かる。
 
身も蓋もなく、楽山は、何を言っているのでしょう。迷惑行為を無常観で済ませるのでしょうか。問題が、定まらないのでも、当てにならないのでもなく、楽山が、無理解のくせに、意地を張って、言い逃れの詭弁を宛がっているということです。こういう誤魔化しが通用すると思っている楽山です。冷静な知性も感性も無い。
 
一切は移ろい行くものであり、人の心もその例外ではないとすると、若干、もの悲しい心持ちがしないでもないが、どんなに悲しかろうが、寂しかろうが、これが現実なのだから、それを拒絶したところで仕方がない。一切は過ぎ去って行くのだとすれば、「一切は過ぎ去って行く」ということもいずれは過ぎ去って行き、その次には一切は過ぎ去って行くとも限らない状態が到来する可能性もあるのではないかと言えば言えそうでもあるが、これはただの理屈に過ぎないのだからどうにもならない。
 
みんな、うつろいゆくものだから、どうにもならない、ということに結びつけて、これで、何か書いたつもりで投稿してくることが、風を追うような、塵に縋りつくような、霞に希望を託すようなものでしょう。
 
楽山の、詭弁の延長としての、うわべだけ仏教哲学風味だけど、繰り言のように腐った不平不満です。楽山の言は、ただの理屈に過ぎないのではなく、自己愛、訂正不能、無反省によるところの、社会悪につながる恐れのある有害な詭弁であります。
 
「どうにもならない」と言っているように、楽山の言説は、何の役にも立たないのです。自分で言っているわけだから、身の程を弁えて、妨害と迷惑の、どうにもならない無益な屁理屈発表をやめなさい。
 
人それぞれという考え方は、各人の自由を尊び、個人を尊重するにはよいけれども、人と同じでいたい、確固たる地盤の上にいたいという願望を充足させるという点では少々物足りないところがあるだろうし、誰をも満足させるものではないのは事実ではある。
 
人それぞれを、心の叫びのように書いた後で、これです。いかに、楽山が、いい加減で、継続性のない精神で物を言っているかが、如実に表れています。楽山の言こそ誰をも満足させない、というのが事実であります。
 
世の中には万人を納得させる思想などというものは存在しないし、当然ながら、人それぞれという考え方もその例外ではない。ただし個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、当分の間はこれがもっとも多数から支持される無難、穏便なものの考え方だろうことは確かではあるし、
 
このような楽山の言は、しかたない、しかたない、といって、努力を怠るところの敗北思想にも似ています。それにしても「多数から支持される無難、穏便なもの」とは、書く値打ちのないことでしょう。このように、楽山は、何も実のあることを提示できないのです。
 
自分が満足しないだけであるのに、楽山は、「一つの思想、価値観で統一するのは無理」と、真実追求をあっさり放棄しています。楽山は、しばしば、このような短絡で、総てを言い切ったつもりになるのです。
 
「これ」って何でしょう。付け焼刃でひねり出した真実放棄の、一つじゃ無理という話なのでしょうか。呆れます。多数から支持されると言っていますが、楽山のお仲間が、無条件賛同するだけでしょう。
 
何だか、ヒーローの説教みたいな言い方になっているのが、非常に気持ち悪いです。それに、楽山の思想は、霊能者気取りで、上から下にアドバイスして、何も益がないという結果が、既に、文章のいい加減さに見えているのです。
 
これが、楽山の自己愛の、根無し、あるいは、根腐れ、とでも言うべき、底の浅さであり、説得力も、説得しようという気も、全くない証拠となるでしょう。未熟な子供が、未熟な意見を、声だけ大人の大声で演説している体であります。言い張ることは、こうも醜いという教訓です。
 
個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、これより善い新思想が出てくるまでは、ますます人それぞれという考え方は広く、深く人々の心に沁み込んでゆくだろうと思う。
 
誇大的気分のヒロイズムと、即、幼稚と言ってよいような、預言者?の演説でもあるかのような、もったいぶった大袈裟な豪語になって、その分、中身が、いっそう、空疎で悲惨なのです。何を言っているんでしょう。
 
人それぞれ、というのは、特別な考え方でも思想でもありません。沁み込むような深いものでもありません。昔から、個人的な要素の強いことに、折り合いをつけるためにあるようなものです。だまされないでください。楽山は、いい加減なことしか言えない自分を正当化しようとしています。これは、楽山の自慰行為なのです。
 
しかし、楽山は、何について語ってきたでしょうか。神と宗教、特にキリスト教についてです。どうでしょう。人それぞれでやって行ったら、際限なく、カルトが出てくる問題なのです。さらに、楽山は、キリスト教と折り合いなど付けていません。否定したのです。白々しい。
 
しかも、楽山は、いっさい、説教にならないのはもちろん、教養にもならない愚痴のようなことをねちねちと執拗に言ってきたのです。今もそうです。それこそ、帰る場所のない野良犬が口角からだらしなく垂らすヨダレに過ぎません。全く思想になっていないのです。
 
この部分は、特に、楽山のベースにある自己愛性人格障害と、いつかヒーロー・・みたいな躁的興奮気分が、垂れ流されています。裸の王様でしょうか。シャロームもそうでした。
 
こちらとしては、楽山の言説が読者にとって、宗教・信仰にとって、害毒だという判断には、とっくに十分な根拠があるわけです。今もそうです。それでも言い張りをやめない楽山の丁寧語の排せつ物を、何やら一端(いっぱし)の思想と勘違いする人がいないように、批判しているだけなのです。
 
 
 宗教が人をつくるのではなく、人が宗教をつくる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月11日
 
 
楽山の正体は、風船か軽石のようです。外れ方が酷くて、中身がなくて、とても、一般に供せられる質ではありません。丁寧を装っても、内容としては、もはや、ひどい外れ方なので、暴言・暴論と言ってもいいでしょう。
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」という話があるけれども、下のような文章を読むと、「人と神ではどちらが先か?」とか、「人と宗教ではどちらが先か?」というようなことをついつい考えてしまう。
幸福が現実に所有されている場合には、悪の思想は実在感をもつことができない。それは、憂鬱が支配している時に、善の思想が実在感をもちえないのと同じことである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.136)
 」
宗教のなかには、幸福感を強調するものもあれば、厭世的な気分を刺激するものもあるけれども、考えようによっては、こういう宗教の色合いは、人の心によって定められるということもありそうだ。幸福な人は幸福を強調する宗教を求め、厭世的な人は厭世的な宗教を求め、それぞれがそれぞれの宗教をより完全な形に熟成させていったのではなかろうかと…。
 
楽山の軽口です。「宗教をより完全な形に熟成させていった」・・宗教の完全な形、誰も知りません。
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」を持ち出してきました。鳥があるのは卵から成長するから、卵があるのは鳥が産むから、つまり、これは、循環論法という矛盾です。
 
これを、楽山は、以前、奇跡について語ろうとして、循環論法になって失敗しているのですが、循環論法が、よっぽど好きなのか、また、今度は、まともに宗教に当てはめようとしているのは、暴論というべきでしょうか、いや、妄想に近い自己欺瞞です。欲と意地以外何もないのでしょうか。
 
宗教は、一部の人々が、真実を追求して、いわゆる気付きをもって、その一部を収穫して、今までにない新しいこととして、人に問うことで始まるわけです。しかし、楽山は、今までの記事の流れから、宗教は人が捏造するつまらないもの、という印象だけを吹き込もうとしています。
 
安っぽい思想を捏造しているのは、楽山その人であります。ゆえに、楽山の言は、呆れるほど、何の感動も意外性もインパクトも面白味もない退屈なだけの代物です。楽山だけが、独りで、整ったと自画自賛しているだけなのです。
 
とすると、宗教の多様性は人の心の多様性によって育まれたのであり、宗教が人を導いているというより、人が宗教を導いているという方が現実に近いのかもしれない。
 
どっちが先?という鶏と卵の循環論法から、楽山は、人と宗教について、要素的な断片を述べただけで、人が先に宗教を作ったという循環しない結論を導いているつもりなのです。目に見えない真実というものを、楽山が、いかに気軽に考え、決めて付けたきたかが分かります。
 
人が宗教を作っている、という、悪い意味なのに、育んだ、導いている、などという、良い意味の言葉を使って、言葉の世界をけがしています。表れているのは、楽山が、詭弁で迷路に導いているということだけです。
 
信仰を持つ人々が作るのは、言葉で表される形式や儀式や組織や道徳律のような目に見えるものでしょう。しかし、宗教と信仰の本質は、目に見えないものです。
 
多様性と書いて済ませているのも、いかにも浅薄なのです。宗教の真実というのは、ごく一部の人が、深い思考によって到達するものです。楽山は、そういう深淵を全く理解していないし、まるで浅瀬で遊んでいる小魚のようです。楽山が思い付きで書くのとは、全然、違うのです。
 
しかも、楽山は、ナルシズムによって、深淵から掛け離れた未熟さを認めず、神も、キリストも、高みから見下ろした風景の可視範囲の一部を見ているで、それで、いかにも、知ってるふうに決めつけてくる慢心した愚昧(ぐまい)の輩です。求める意志がないから、その時その場の付け焼刃で、結論を出してしまうのでしょう。
 
ちなみに自分のことを書くと、自分はいつも厭世と理想の両方に足を乗せているように思う。
 
楽山は、どちらにも、手も足も乗せていないと思います。厭世も理想も、考えれば、深く遠いものです。偉そうに言ってる楽山だけが、浅くて、思い上がっているという醜態です。
 
それでいながら、「一切は過ぎ去ってゆきます」という方に傾いてみたり、「すべては愛と歓喜に満ちている」という方に傾いたりして、始終、重心を動かしている。
 
楽山に重心はないと思います。浅さ、軽さ、だけが目立ってきました。難しく気取って見せても無駄なのです。
 
悔いる悲しみの代わりに不快感と不機嫌しか持っていないような楽山が、太宰の言葉を引用しても無駄です。楽山と太宰は、全然、質が違います。しかし、人間失格は、楽山のほうに、そのまま言えてるかもしれません。楽山は言論者でも思想家でもありません。
 
宗教でいえば、あらゆるものを厭い離れる仏教的なものに魅かれるときもあれば、克己心をふるい立てさせる儒教的な方面に関心が強くなったりもするし、文学でいえば漱石の「硝子戸の中」「道草」「門」などの雰囲気に安らぎを感じることもあれば、武者小路実篤の楽観的な理想主義で元気をつけることもある。
 
さも広く学んできたような書き方をしていますが、両極端を、ふらふらしているだけなのです。今回、説得力が、まるでないことに、それは表れてきました。文学の名前を出して、もったいぶっているだけです。つまりは、自分で何も組み立てられないことを表しているのです。しかも、謙虚さが全然なくて、実に気色悪いのです。
 
このように自分一人の心でさえも、その時々によって揺れ動くのであれば、様々な個性を待つ人々が何億、何十億と存在する世界に、その個性に応じて無数の宗教が存在するのも必然なのだろうし、
 
もったいぶったニセ賢者の台詞です。今回は、スケールが、前にも増して誇大的かつ大袈裟であることが目立っています。一人に、一つずつ、楽山の欺瞞・・でしょうか。冗談じゃない。
 
無数の宗教を、必然だと言って、無節操に無条件に許容してしまっています。それで何か語ったつもりなのです。何の思想も哲学も宗教もありません。これが楽山の空虚さ、かつ、浅薄さです。
 
これこそが宗教は唯一の真実に属するというよりも、人々の理想、願望、感性などに関わるものだということを端的に示しているのではないかと思う。
 
唯一の真実など、楽山は、最初から見つける気はありません。見つける努力を少しもしていないことが、書いたものの短絡に表れているからです。楽山は、おのれの怠慢ゆえに、一気に到達したいのでしょう。真実が、そのような広い門を持っているでしょうか、否であります。広き門は、悪魔と地獄の入口であります。
 
「理想、願望、感性に関わるもの」などと、真実を考えたこともなく真実に共感したこともない楽山にだけは、言われたくないです。こういう、当たり前のことを、平気で言って、真理に関わってる風味を出そうとしてきたのが楽山と言えるでしょう。空っぽ・・だけが、表れています。
 
楽山は、努力したくなくて、既に分かっていることにしたくて、以前から、それに合うところの、ああでもない、こうでもない、という、ボンヤリ言語の世界に安住したくて、真実というテーマを、節操もなく、だだっ広く、錆びた工具にしています。
 
楽山の、気安さが、底の浅さが、ペテン師的な詭弁精神だけが、漏れ出ている文章です。目標へのフォーカスを持たず、偉いと思われたいだけの人のようです。今回は、楽山の体質が、かなり、はっきり表れてきたと思います。
 
 
気安さの末路
気安さの末路
 
 
(2020年04月12日)
(2021年04月16日、加筆して再録)
 
 
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最終更新日 : 2021-04-16

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