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ウソの国ー詩と宗教(戸田聡)

キリスト教、ポエム、宗教詩、数学・図形、など

Top Page › キリスト信仰と批判 › 返信(2)
2021-04-06 (Tue) 00:33

返信(2)

 
  返信(2)
 
 
先日コメントをさせていただいた者です。
返信をどうもありがとうございます。
今回も非公開コメントとして送信いたします。
人を信じすぎる、と言われてしまったからでしょうか。不確実性の中で、無自覚な共依存が増大し、自分の判断、考えというもの、それこそ自信(自分の責任)が保てない乱暴な社会になってしまっているように小生も含めて感じています。
 
様々な共依存が支配しているように思います。縛りと気安さがあると思います。そこで、同じことを言い、讃美し合い、団塊となるのが、安心なのでしょうか。そこから離れると、言い知れぬ不安・孤立感・孤独に襲われるのかもしれません。
 
できることは、極めて限られているけれど、この地上で、精神において個として自立するために、神聖の存在を信じているのに、そこでも集団への従属が強いられているところがあるのでしょう。
 
私は、一人の信仰者として信仰を持つ者を思う気持ち(愛)を示されている戸田様の言葉を贈り物として受け取っただけです。神の御前で人間である自らの正しさを疑う姿勢、謙虚で敬虔な姿勢について共感を抱きました。
 
「自らの正しさ」が否定されて、疑いに満ちた行き場のない状況で、キリストの共感と、神の寛容が、救いになっていると思います。
 
信仰こそが人を救う、それが最も尊重されることならば、その神髄を聖書全体が通して語っているはずで、それに気づかせていただいたように思います。私はメシアニックという立ち位置から聖書について学んでいましたが(互いが互いを補足しあうという事から旧約も新約も通しで。無意味なものを神はこの世に残されはしないとも思い…)、基本的には聖書が説くのは宗教ではなく、神と私(人間)の関係であると思っております。響くことしか受け取らない、というのは本来の形かもしれません。それこそ聖霊の成すことなのかもと思います。
 
私は、聖三位のうち、聖霊という存在が、いまいち、分かりにくく、キリストの臨在、神の導き、ということと区別できずにいます。いずれも目に見えない御方ですが、神については旧約に、キリストについては新約に、その言動が記されているので、どういう御方か、少なくとも想うことが出来ます。嘘を嫌う御方だろう、そして、愛と共感に満ちていて、不完全な被造物である人を救う意志のある御方だろう、そして、とても、寛容な御方なのだろうと思っています。
 
聖霊については、ヒントさえも書かれていないような気がして、霊+聖で、聖霊と言われても、概念上の言葉のようで、ピンときません。
 
今、信仰に情熱を持ち、自分が正しいと信じ、隣人愛を前面に押し出した多くの宣教者を目にします。(聖職者ではないです)「隣人愛から私は●●をしている、自分は謙虚、神の言葉を代弁している。」と言い、ただ…何かが違います。キリストもパウロもこんなことを口にせねばならなかったことはないのです。
 
この宣教者の発言は、自慢ですし、「神の言葉を代弁している」と言った時点で、自らの罪性を無視して、絶対性と無謬性を唱えているので、私に言わせれば、人の立場を弁えない背教に思えます。
 
正しさの根拠は、歴史であり、書物であり、科学であり…人が作ったものです。そのどれが正しいと判断するのも人間で、まるで謎解きが出来たことを知らしめているだけのような怖さを感じます。心情が異なると根拠が異なり、順じて説くことが異なってしまうのです。聖書は万人のためのもの、なのにです。
 
謎解きが出来て何でも分かっているつもりになっているところが、既に、おかしいわけです。こういう発言を見るたびに、人間の、罪性、不完全、非絶対性、ということを再認識します。信仰者であろうと、聖職者であろうと、同じですから。
 
「キリストにおいて生まれ変わったら人間の罪の性質はなくなるのだから、信じたらそれはもうない」と豪語する人たちは自分の偽りに気づけていないように思うのです。そうであるために、たくさんの戒律を守るのです。個人的には、戒律を守ることで本当に嘘偽りなく罪を遠ざけられ、またそこに確信(不完全である自覚)が伴うのならすべきだと思いました。キリストは『法律や預言を廃止するために来たのではない』と仰いました。
 
律法を成就するために来たという聖句があったと思います。パリサイ人は、律法を、戒律として守ればよいという主義によって、人間の深い心情を損なっていたからだろうと思っています。キリストの言葉は、律法のための人、ではなく、人のための律法、という意味の成就だろうと思っています。
 
私たちが本当に生まれ変われるとしたら、それは肉であるこの体がなくなるときではないのでしょうか。
 
よく分からないのですが、生きているあいだ肉は付いていますから、死ぬ時という意味でしょうか。死後のことは人には分からないので、神に任せるしかないと思っています。
 
だとすれば、そういう超常のことより、もっと、地上で、倒れそうな時に、死んでしまったような気持ちから、生きてゆこうと思い直すという人間の人生の再出発のことを人の復活として考えたいです。
 
こうしてお話をさせていただきながら思うことは、『わたしの軛は軽い』『自分の十字架を背負って』というのも、多分『授けられた信仰の度合いによって』と同様に、各人が信仰を何と心得るのかで軛も十字架も異なり、それは自由意思の範疇にあるのかもしれません。伝わり辛い思考・表現かもしれません。
 
『わたしの軛は軽い』・・キリストが、人々の罪を背負って十字架につくゆえに。キリストが与える荷は軽い、キリスト者への縛りは自由意志を妨げるものではない、というくらいの意味に受け取っています。おかげで、今、自由に考え、書いています。
『自分の十字架を背負って』・・十字架は、罪のしるし、しかし、罪なきキリストが負うたゆえに、逆説的に、信仰による解放のしるしとなっていることでしょうか。
『授けられた信仰の度合いによって』・・信仰者それぞれに、役割・使命は違うということでしょうか。生きて証しを立てるか、死んで証しを立てるかを含めて。
 
私は、聖書にはすべての答えがある、そう思って勉強していました。今も、まだそう思っています。何が何のために、そしてなぜ創造されたのか(自分も含めてです)。何がどうして善とされ悪なのか。どこからきて、何を全うしどこへ行くのか。神は分別を教えてくださると思っています。しかしそれを行うのは自分で、神は自由意思を最大限尊重されるお方です。でもだから、人間の私はいつも不完全です。
 
聖書と信仰生活上の体験とでしょうけれど、私は、何らかの楽しみをもって、祈りの暮らしを送れたらいいと思っています。
 
私たちが生涯理解することのない皆無・零から万物を創造された方の偉大さを、それを想像することですら成しえない無力さを、信仰の理由にしています。なくても生きていける人がたくさんいるのに、弱い私は考えずにいることなんてできない。これからもです。
 
キリスト者として共感いたします。拝。
 
>※記事についている写真と一言、個人的には楽しんでいます。
 
手持ちの画像が少ないので、色を変えたり、文字を入れたり、
・・似たような画像が多いと思います。失礼。
 
 
これも、記事にしたいと思います。
 
信仰は、人間としての、思慮においては分別、情においては共感であります。
 
 
共感3
共感
 
 
(2021年04月06日)
 
 
※ 上の記事とは別儀であります。
 
 楽山ツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
初期のHS本では
批判は、自分の至らぬところを教えてくれ、さらには自分の名を広めてくれる有り難いものだとか
自分は間違ってなくとも、相手が怒っているなら、自分の何かが相手を不快にさせたのだろうから、そこは謝るべきとしてたと思う。
この点、荒井氏はHSよりも心の教えに忠実ですね。
午前6:45 · 2021年4月5日·Twitter Web App
 
楽山は、至らぬところを指摘しても、返してくるのは、いちゃもんだけで、不感不応の無視であります。楽山は、自分の名を広めるためだけに書いてくるとしか思えません。書かないと自尊が保たれないので、衝動的か、反射的に、性分だから書くのかもしれません。
 
楽山は、アンチHSではありません。楽山という自己愛性人格障害者は、幸福の自分教の奴隷であり、言ったことの責任を負う気などありませんから気をつけてください。宗教の教えとか忠実ということから、最も遠い人です。楽山の言うことを真に受けないでください。
 
楽山の詭弁は、丁寧語に隠れて、直ぐには気づかない人が多いかもしれません。私も、数か月、楽山の嘘と詭弁に、だまされ、すかされ、ごまかされ、はぐらかされ、疲労しました。
 
よって、その場で短いことを書く感じのツイッターベースではなく、おもに、じっくり考えて書けるブログ記事ベースで批判を続けています。ツイッターにもコピーはしています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4月4日
信者は減ってない、増えていると主張するとは、
大きく出ましたな。ははっ。絵文字(笑った顔)
 
楽山は、真実を分かち合うという姿勢がなく、ただ「ははっ」と笑うことで満足するようです。人が、いさかうのを、楽しんでいるようです。人が、自分に負けるのを、悦びとしているようです。誠意の欠片もないと思ったほうがよいです。
 
 
(2021年04月06日)
 
 
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最終更新日 : 2021-04-06

Comments







非公開コメント

神私(人)混同

自分の信仰を顧み、自ら考える機会を頂戴していることに感謝を申し上げます。自分の中に沸き起こった矛盾や困惑が少しずつ晴れていくように感じています。
考えたことを共有いたしたく投稿させていただきます。誰かを説得するためとか、これが正解だとか、そういう意図は全くありません。感謝の意として伝われば光栄に存じます。

>私は、聖三位のうち、聖霊という存在が、いまいち、分かりにくく、キリストの臨在、神の導き、ということと区別できずにいます。いずれも目に見えない御方ですが、神については旧約に、キリストについては新約に、その言動が記されているので、どういう御方か、少なくとも想うことが出来ます。嘘を嫌う御方だろう、そして、愛と共感に満ちていて、不完全な被造物である人を救う意志のある御方だろう、そして、とても、寛容な御方なのだろうと思っています。
 
聖霊については、ヒントさえも書かれていないような気がして、霊+聖で、聖霊と言われても、概念上の言葉のようで、ピンときません。

……
拝読し、なんとなく分かった気になっていた自分が恥ずかしく、些細な驕りも偽りで、信仰の妨げになることを思い知りました。子供のようであるというのは、このような驕りの一寸もないことを言うのだろうと。素直な心がなければ弁えがなく、弁えがなければ信仰にはほど遠い。人を許せるはずもなく、そこに愛はないだろうと思います。

さて、聖霊について、改めて自分で考えてみることにしました。
至ったのは、聖霊とはキリストが、神が心の内に住まわれた状態であり、その心に従うことなのではないかと。端的には、キリストへの愛ではないかということです。[1ヨハ2:20-]
信仰があれば、聖霊が降りる。キリストが約束されたこと。
[エゼ39:29]…主であることを知るようになる…わが霊をイスラエルの家に注ぐ。→祝福
[ヨハ1:33、マタ3:11、使2:3-4] キリストは聖霊のパプテスマを授け、祝福された
[ヨエ3:1-]“わたしはすべての人にわが霊を注ぐ”
[ヨハ7:37-]その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる=聖霊

聖霊が降り注ぐ、が“わたしの言葉は全世界へ響き渡る”ということだと思い(単純に聖書・福音として知られる事もですが)、信仰は、その証[ヨハ3:31](言・神・霊):見たこと聞いたことを証しされたキリスト、を内に宿らせた結果強くなっていく。見たこと聞いたことを語る聖霊[ヨハ16:13]によって突き動かされるもの。

聖霊は真理である[ヨハ16:13][1ヨハ5:6]、ということからそれがキリストである事になります。キリストは命であり、真理であり、道であると書かれているとおりに。
キリストの臨在や神の導きと区別出来ないというのはごもっともと小生も思います。神と直接的交信が旧約、新約でキリストを介した神との交信を経て、今は私たちの直中、神殿である体に宿るのが聖霊と捉えます。
霊もしくは聖霊の働きによるところの実が、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意(善ではないんです…神は人を知っておられる)、誠実、柔和、節制[ガラ5:22]とされていますし、
聖霊が注がれると…
→正義・公平・平和・信頼・安らぎ・憂いなき休息[イザ32:15-]
→渇きを癒す、祝福そのもの。[イザ44:3]
に書かれている通り満たされます。信仰であり、希望であり、愛、それが恵み[テト2:11]、に行きつきます。

“わたしを愛していれば掟を守る”[ヨハ14:15-]。これは誰かが頭で考えて、人として肉としての聖書の文字通りの解釈やこじつけに従うということではないと個人的に感じています。そのすべてが悪いとか誤りだとかいうのではなく(小生はある形を守ることによる内面の変化を生きました)、ただ一歩間違えば本来の信仰を見失いかねないという懸念は強く残ります。
聖霊が信仰を強め、聖霊が掟を守らせると言われます。従いたいと思う気持ちは、聖霊の働きであると。キリストが心の内に住まうこと(聖霊)で、信仰が強められ自らの意思がキリストに添うように働くこと。そこにキリストへの愛があれば自ずと果たされるということではないでしょうか。実際にヘブライ語の信仰とは、【信じ信頼し従うこと】とされます。そしてそれは、書いてあったからこうすべき・ああすべきというのではなく、水のように流れる心、溢れる愛、生まれる思いがあるから、必然的に行動を取る自分がいるだけなのではないかと。
掟を守る事がすべてとなるような偽りの信仰は、なんとなく現代の偏った独りよがりの愛を彷彿させるのです。説かれただけで分かることのほうが少ない。私たち人間は、知らないものは想像もできない。体験したことのない愛を体現することなど毛頭できない。できると思うなら、それは知っているつもりの愛でしかない。知らない愛の在り方を教えてくれるのが聖霊で、それには、信仰それ自体が地についていなければどうにもなりません。自分の醜さを認めることのできない醜さこそが、信仰を邪魔しているように思います。

では、私が分かっていたつもりの聖霊とは何だったのか。お恥ずかしながら申し上げますと…超常、漠然としたイメージにすぎません。エネルギーとか。自分が五感で知覚できないすべてを総称するのに使ってしまっていたのかもしれないと思うと恐ろしいです。
聖書に描かれていることがその通りに自分に起こると思い込む。神の御心が、祈れば分かるとばかりに、自分で考え判断することを放棄しどこからともなく聞こえる声を待ち望む。これは人間でありながら人間性を忘却する・葬り去ることだとは気づきもせずに。見た夢は神の啓示だと思い込む。啓示がないのは、行いが至らない(戒律を守れていない)からだと、自分の信仰の在り方をそっちのけで傾倒していく。何も分かっていない状態だったのだと今は解しております。それこそ盲目の信仰です。
極端に言えば、超常現象の源が聖霊だと思っておりました。なんとなく、多くの方がこんな感じではないかと今となっては拝察いたします。

これが戸田様の仰る神聖になれると人間でありながら思い込む、神私混同(個人の造語です、すみません)の悪かと存じます。
上記のことを自覚いたしました。

返信いただくのは大変嬉しいことなのですが、戸田様の執筆ペースを乱しているのではないかと心苦しくあります。戸田様の感性で執筆される記事が好きなので、小生のコメントは余りお気になさらずに、何らかの種にでもなればと幸いと存じます。

※ふと思ったのですが、トダは、ヘブライ語で”ありがとう”なんです。ただそれだけで申し訳ないのですが、素敵な偶然?だなと。それ自体に意味を持たせることはしませんが、なんだか名前を呼ぶたびにありがとうっていいですね。
2021-04-07-09:42

- URL [ 返信 ]

st5402jp

Re: - 様へ

 
  返信(3)超常と人間
 
 
コメントありがとうございます。記事にしています。
 

さて、聖霊について、改めて自分で考えてみることにしました。
至ったのは、聖霊とはキリストが、神が心の内に住まわれた状態であり、その心に従うことなのではないかと。端的には、キリストへの愛ではないかということです。[1ヨハ2:20-]
信仰があれば、聖霊が降りる。キリストが約束されたこと。

 
聖霊については
1.神が心に住んだということが人間に分かるかどうか。
2.その心に従うことが出来ているかどうかが人間に分かるかどうか。
3.信仰があれば聖霊が降りるが、降りましたと実感として経験しているかどうか。
という問題になるでしょう。
 
教派によっては、信徒は、聖霊様と呼び、昨夜も聖霊様とお話ししました、などという発言もあるかに聞いています。この問題には、人が、自己暗示して、そういう気になり、それに聖霊の名を与えてしまうという問題があります。念じればその気になる、という心理的思い込みから、求めれば聖霊と話が出来る、ということになりはしないかと危惧しています。心の中の一種の偶像ではないかと。
 
自分で思い込んだ心の中の偶像との区別がつくのだろうか、区別がつくのなら、その人は、聖なるものを見分ける聖なる分別の能力があることになり、それは、人間が聖人レベルになったということを意味していて、それだと、信仰は超常現象ということになります。本当なのかという疑いは、私がずっといだいている疑問です。超常が手に負えるのは、超常の神聖なる御方だけですから。
 
神聖が与えるから分かるようになるといっても、心の中に生じたものを、人間が、どう区別できるのだろう、信仰があれば分かりますと言われそうですが、私の信仰は、超常に生きるためではなく、この世界の日常を生きるためだと思っているので、実感として、自分が、超常の存在の意志と行為を確認できるとも、できるようになるとも、思えまないのです。
 
私たちは、正直な祈りの生活において、知らず知らずのうちに、神によって、恵まれ、運ばれてゆくのだろうから、いつも、神の民として相応しく、神聖に対しては仰ぐ姿勢しか持っていない人間として生きていないといけないと思っています。
 
聖書を読んで、キリストが、どういう人を救い、どういう人と対立したか、ということを学びました。その学習は、キリストの洞察力と共感力つまり愛であり、一生涯、忘れてはいけないし、忘れないだろうと思います。キリストについては、大事なことを学習できるわけです。
 
聖霊はいないとまでは言いませんが、人間が、それだと確認できる御方ではなく、祈りにおけるキリストと神の臨在以上の認識は、私は持っていません。聖霊は、キリストの臨在がなくなることはないという意味ではないだろうか、あるいは、神の御心に沿うような心の働き以上ではないような気がします。
 
キリストの愛に答えて、聖三位に対しては、愛することが大切ですが、それが、完全には出来ないのが人間です。神聖を愛する以上に、聖なる自分になりたがる傾向を戒めて、神聖を恐れる必要があると思います。ゆえに、神聖のなさることを、自分に結びつけて、聖霊が云々と言うようになってはいけないと思います。
 
聖書というのは、超常現象がたくさん書かれているわけですから、聖書に書いてあるから、あるんだという理解の仕方では、信仰は超常に付き合うことになってしまいます。先ほど描いた、キリストによって、誰が救われ、誰が敵となったか、ということを考えれば、そこから、神聖に対しては、恐れをもって、へりくだって、祈ることしか出来ないと思っています。
 

キリストの臨在や神の導きと区別出来ないというのはごもっともと小生も思います。神と直接的交信が旧約、新約でキリストを介した神との交信を経て、今は私たちの直中、神殿である体に宿るのが聖霊と捉えます。

 
そこで、聖書のどこが事実であったかという話になるでしょう。それよりも、事実であった、説教のための神話つまり作り話だった、どちらも決めつけてはいけないのです。聖霊を人の理解で捉えてはいけないと思います。聖霊が、私たちの気づかないうちに、私たちを捉えるのです。神聖なる聖三位は、いずれも、そのような御方として、私は恐れています。
 

聖霊が信仰を強め、聖霊が掟を守らせると言われます。従いたいと思う気持ちは、聖霊の働きであると。キリストが心の内に住まうこと(聖霊)で、信仰が強められ自らの意思がキリストに添うように働くこと。そこにキリストへの愛があれば自ずと果たされるということではないでしょうか。

 
ならば、捉えられておればよいのであって、あたかも身近にいる御方のように、あるいは、概念として理解しようとしたり、机上に置いても、言動においても、捉える必要も能力も、人にはないと思っています。
 

掟を守る事がすべてとなるような偽りの信仰は、なんとなく現代の偏った独りよがりの愛を彷彿させるのです。説かれただけで分かることのほうが少ない。私たち人間は、知らないものは想像もできない。体験したことのない愛を体現することなど毛頭できない。できると思うなら、それは知っているつもりの愛でしかない。知らない愛の在り方を教えてくれるのが聖霊で、それには、信仰それ自体が地についていなければどうにもなりません。自分の醜さを認めることのできない醜さこそが、信仰を邪魔しているように思います。

 
信仰それ自体が地につくためには・・というテーマになります。それは、聖霊をはじめ、聖三位の存在を、どう受け止めるかによるので、堂々巡りみたいな問いになりますが、大事なことは、人間として受け取れることだけを、受け取って考えるのが、信仰者の信仰のあり方だと思います。
 
知らない愛のあり方を教えてくれる聖霊という考えは聖書的であり教理的でもありますが、人間の不完全さを思えば、むしろ、知らない愛のあり方を知るようになるところに、神の支配も、キリストの臨在も、聖霊の導きも、人に知らせず、働いている、あとになって、そうだったのかな・・くらいの感慨にとどめておかないと、やがて、聖霊の行為を断定し期待し始めるようになる危惧を感じます。
 

神の御心が、祈れば分かるとばかりに、自分で考え判断することを放棄しどこからともなく聞こえる声を待ち望む。これは人間でありながら人間性を忘却する・葬り去ることだとは気づきもせずに。見た夢は神の啓示だと思い込む。啓示がないのは、行いが至らない(戒律を守れていない)からだと、自分の信仰の在り方をそっちのけで傾倒していく。

 
自分と自分の今までの生き様を思えば、聖霊を受けて、何か正しくなり、高潔になり、神の御心に従っているとは、直感として、とても言えない、ということは分かるはずなのです。
 
一般的にも視野狭窄し、教理の概念だけに集中したり、人間として考える努力を怠り、神聖へ、超常へ、と向かう傾向は、稀ではないようです。信仰は、人が人として生きるためにあります。人が人間以上になるためではない、ということを肝に銘じたいと思います。
 
>戸田様の執筆ペースを乱しているのではないかと
 
執筆というほどのものではないですし、考える機会を与えられて感謝です。拝。
 
 
2021-04-08-00:14

st5402jp URL [ 返信 ]

Re: st5402jp 様へ

どうもありがとうございます。たくさん学ぶことがあり、勉強になります。丁寧に回答くださり、感謝です。

理解至らないものに名をつけても、名のある理解至らないものに概念をつけても、己の想像の域を出ることはないです。自らの行いに関しては、常に”努めました”であって、”御心に沿ったことです”とは言える日は来ません。
対人でも同様です。本人に確認ができない限り、相手の最適解を知る日は来ません。良かれと思って選んだ一言が、容易に相手の気分を害することがあります。でも多くの場合、人は確認できることですらその程を確認しようとはしません。そしてイメージを引きずります。
確認しようのない相手において、この習性はもっと幅を利かせる状態になってしまうと思います。

名がある事柄について、もしくは概念が伴ったものについて、偶像的な思い込みはその時点で発生していると思います。不可避かもしれません。
考えるべきことがたくさん出てきました。整理して、考え直し、改めたいと思います。ありがとうございます。
2021-04-08-05:55

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