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ウソの国ー詩と宗教(戸田聡)

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2020-03-23 (Mon) 00:33

他者の口を利用

 
  他者の口を利用
 
 2020年03月22日
 神との対話の危険性(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24047881.html
 
 
楽山は、自分の霊感を主張して止みません。しかし、楽山は、霊感の働く人であるならばありえないような、無理解、異なる意見に対する不感不応、理路の破綻と情緒の欠落、などの人間的欠陥だけが露呈してきた経過です。もはや、悪意以外何もないのでしょう。それで、また、人格を自ら破壊してゆくのです。
 
下の文章によると神の言葉は耳に聞こえるのではなく、心にうかんでくるのだという。
神は、わたしにとってはまったくの実在である。わたしは神に語りかける、するとしばしば答えを得る。わたしが神に指図をこうと、わたしがそれまで懐いていたのとはまったく違った思想が、突如として、わたしの心にうかんでくる。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.111)
 」
これは体験者の手記として、本書に引用されているものなので孫引きになってしまうのではあるが、こういう風に、霊的存在の声が聞こえるのでなく、その思いが直に心に伝わってくるという話は、その相手が神、高級霊、守護霊、生霊などの違いはあれども、他所でも読んだり、聞いたりしたことはある。
 
引用書籍の人が、どういう体験をしたのか、事実なのか、比喩的に表現しているのかは分かりません。しかし、今まで記事とコメントを見てきた楽山については、カルトが自身を言い表すのに、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して騙すしかないという習性を考えれば、楽山や、シャロームなどは、全くのインチキであることしか表れていません。
 
たとえば、某スピリチュアル系のブログで、自分の心にうかんだ思いについてよくよく吟味してみれば、それが自分の思いではなく、自分以外の存在(指導霊、守護霊、生霊、悪霊など)の思いであることが分かるということを書いているのを読んだことがある。このブログ主は、そのようにして心の中の他者との対話を試みているようだった。霊好きの人のなかには、毎日、霊と話しているという人がいたりするけれども、こういう心の中での対話をそのようにとらえている場合も少なくなさそうだ。
 
直感、直観、インスピレーション、ひらめき、思いつき、そして、理解に至るまで、人間の精神活動は、複雑ですが、楽山は、人が書いているからと、霊の分類まであげて、見せびらかします。つまり、説得力のないことを、他者の口で補おうとする醜さです。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの精神であります。
 
この、人が書いていると楽山が言うことも、指導、守護、導き、誘惑など、心に起こっている活動や作用を分けてみたのかもしれない、ということを、楽山は、考えることが出来ないのです。
 
楽山には、可能性がありません。断定だけを暗示的に繰り返しています。そもそも人格が、既に、自己中絶対の方向に進行性に病んでいるからです。
 
タロット占いをする知人も、これと似たことを話していた。この人の占いはよく当たっていたので、その理由を問うと、何となく分かるのだという。カードのケースにある説明には、カードの意味について抽象的かつ簡潔にしか書いていないのに、なぜカードの意味をそんな風に具体的かつ詳細に語れるのかを問うても答えは同じで、何となく分かるのだという。どうも語るべき言葉が自然と心にうかんでくるらしい。
 
楽山は、よほど、人に影響を受けやすい人格のようです。あるいは、人の口を利用しなくては、何も語れないのでしょうか。こういう情けない有り様も、楽山の知性?と感性?が、実は、欲望だけによることを物語っているのです。
 
自分は世界には人知ではうかがい知れぬ不思議なことがあっても別におかしくはないと思うので、オカルト、神秘主義を頭ごなしに否定しようとは思わないのではあるが、心の中での対話は、心の健康のためにはよくないという話は聞くし、霊的存在との対話にハマり込んでしまうと段々とその命令に逆らえなくなり、やがては自分の人生を乗っ取られたり、現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れがあるという話も聞いたことはある。実際自分もこの手の注意の大切さを実感した経験がないでもない。
 
オカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山ですが、そのことを「否定しようとは思わない」という言い方で、客観に見せかけて、受け入れさせようとするのが、楽山の、ボンヤリ言語、という、とても卑怯な細工なのです。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」というのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作の、ボンヤリ言語のインチキのやり方だということを忘れないでください。どんどん、怪しさが増します。
 
昔、見かけたことのある、お祭り騒ぎの乗りみたいに、祭りの出店でタコの入ってないタコ焼きを売るような、下品なインチキ商売だということを、楽山自身が、次々に表しています。
 
楽山やシャロームのような人物が、いちばん、真実を追求しる人たちを、自分のインチキレベルにおとしめたり、カウンセリングする人たちの邪魔をしたりする悪魔性の、でき損ない半端人間なのです。
 
世の中には霊好きな人…この手のことにどうしてものめり込んでしまわないではいられない人もいるだろうけれども、一般的にはそういうことはほどほどにしておいた方が無難だろうし、できればはじめから近付かないのが一番だろう。触らぬ神に祟りなしというのは本当だと思う。
 
霊好きな人と、まるで他人事のように言っていますが、霊に固執してきたのは楽山です。というより、触らぬ神に祟りなしと言うなら、霊のことなど、書かなければよいのです。ここは、ある意味、批判者に対する脅迫とも受け取れるでしょう。ヤバい本性です。
 
知情意の整わない者が、自己愛が高じて、自分は特別なんだと思い込みたくて、数々の思慮と情緒の破綻を指摘されても、他者に笑われても、なお、お気楽に、霊が分かるっぽい自分を、安易に短絡した記事を書いて、霊を聞くことはあるんだ、などと吹聴しているだけなのです。
 
何故なら、霊が分かるっぽい楽山は、まるで、人間が分かっていない。さらに、人間の信仰が分かっていない。理路が詭弁だらけで通っていない。情緒が鈍くて、感受することが、いずれも幼稚な夢物語かお飛び話のたぐいになっています。
 
かつ、楽山は、そのことを全く反省せず、学習せず、自分が特別ということだけにしがみついているので、成長のない訂正不能の穴グラに居て、過大な自己愛によって、ひたすら、発信だけを繰り返して、恥に恥を重ねていることに気づかないでいます。どこにも届かない妄想世界の作り話ですから、騙される人が出てこないように、私は、批判記事を書いています。
 
こういう、見かけだけ優しい易しいボンヤリ言語で、詭弁、印象操作、刷り込み、マインドコントロール、というのが、知らずに感染して、いつのまにか同じような人格破壊の病巣に進行してゆく、という楽山のやり方です。
 
楽山は、決して、スピリチュアルを云々できる人ではありません。要・警戒、というより、要・全否定だと思います。社会の敵としての特徴がそろっています。
 
決して、楽山の言を、吸い込んだり飲み込んだりしないでください。既に受け入れてしまった人は、できるだけ早く、汚物入れか何かに吐き出してください。
 
楽山の影響下にいることは、とても危険です。楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするからです。
 
 
(2020年03月23日、同日一部修正)
 
 
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最終更新日 : 2020-03-23

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