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ウソの国ー詩と宗教(戸田聡)

キリスト教、ポエム、宗教詩、数学・図形、など

Top Page ›  › 「完全欲」
2018-05-25 (Fri) 00:02

「完全欲」

 
  完全欲
 
 
欲と書いたが
ここでは
邪悪な欲望という意味よりも
意識するとしないとにかかわらず
個人の欲するところの傾向として
善かれ悪しかれ有るものとして考える。
 
信仰については
罪にも恵みにも関わってくる問題である。
 
キリスト者は
神という完全なる御方に関わっている。
それで
信仰に完全を求めやすい。
憧れているからだ。
 
憧れていることは一つの傾向を生み
神の完全が当たり前になって
不全の人に対する配慮に気づかないことがある。
 
神という御方には秘密が多い。
言ってしまえば
人間は神を理解することは出来ない
と私は思っている。
 
人間が理解できるのは
神と人の共通するところ
すなわち
キリストの人格だと思う。
 
しかしながら
完全なる神の
しもべであるという自覚から
傾向として
完全のほうを見ている人が多い。
 
私たちは・・と振り返れば
私たちに完全は当てはまらない。
私たちは不完全なまま生きて
救ってくださる御方を慕っている。
 
完全なる神の
しもべに相応しい自覚は
不完全の自覚である。
 
私たちは不完全を見るべきだ。
 
不完全を目指すのではない。
不完全である自覚のほうを
もっと見るべきだと思う。
 
神は完全であり
神の肯定は全肯定である。
 
しかしながら
私たちは不完全であり
私たちの肯定は部分肯定が多い。
というより
私たちの言葉の肯定文で表されることには
考えてみると全肯定はむしろ少ない。
 
だから
肯定=全肯定が当たり前になってはいけない。
 
すぱすぱっと
肯定文を並べているときには
そんなに肯定していいのか
ということを考えてほしいと思う。
 
部分肯定とは
場合によって当てはまらないことがある
ということ。
 
不完全ということは
私たちの罪の性質にも深く関わることで
私たちは断定的な言い方としては
せいぜい部分肯定か部分否定され
せいぜい部分肯定か部分否定する立場である。
私たちは「と思う」に過ぎない存在である。
 
その性質の自覚を
神によって憐れまれて
赦され義とされるのが信仰の救いである。
 
受けるときも発するときも
断定表現には気を付けたほうがよい。
当てはまらない場合があって気づかなければ
そこに無理な圧力を加えることになる。
 
論理の話はめんどくさいけれど
全肯定の否定は
全否定ではなく部分否定である。
 
神は完全である。
人は完全ではない。
 
人は不完全を忘れてはいけない。
 
そこに救いが必要な理由があり
とても大切な
救われる根拠もあるからだ。
 
ただ
白の否定を黒にしないように。
 
そこに白でもなく黒でもなく
目立たない灰色の
私たちの憧れの原初があるからだ。
 
 
(2018年05月25日、同日一部修正)
 
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最終更新日 : 2019-03-12

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2021-04-04-20:06

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st5402jp

Re: - 様へ

 
コメントありがとうございます。気づかなくてすみません。FC2よりメールとして届いて、確認しました。
 
私は、聖職者でも学者でもないので、一人のキリスト者として、ブログを書いているに過ぎませんが、読ませていただいて、共感できることが多いです。
 
確信という言葉は、聖書にも多く出てくるようですが、確信=絶対正しい≒教理は絶対正しい≒説教者は絶対正しい・・になってしまいがちです。その際に、疑問を呈する人を黙らせるのに、一番効果的なのは、"聖霊"(?)でしょう。物言わない存在だから利用されやすいと思います。
 
確かに聖書からキリストに出会ったと思っていますし、信仰は持っているわけです。どう信じればよいのかと言うことを、ずっと考えてきました。おっしゃるように、私は、人間の罪の性質を、ほぼ同値として、神とは違う人間の不完全という言葉で表すことが多いです。信仰者も罪を犯します。神とは違って不完全だからです。
 
罪深い人間の性質は、信仰者も変わりません。人の、いかなる思いも行為も、完全ということはないと思います。このことを弁えておかないと、・・人を裁く豪語になりかねません。
 
確信は、罪深いこと、即ち、不完全であることを弁えることだと思います。弁えないと、神聖と自分が一体化したかのように、自説を言い張るようになるでしょう。
 
取税人はその弁えを知っていました。パリサイ人はそれを知りませんでした。不完全という言葉を使うのは、神の完全との対比であります。
 
いつからか、私は、心に響くことしか受け取らなくなったと思います。信条や教理は、人間の言葉で表され、伝えられています。人間の言葉自体は、伝達のための乾燥した暗号に過ぎません。共感や感動を与えるのは、言葉+個人の心に起こる体験でしょう。
 
人間が、何でも神秘と結びつけたがるのも、罪の性質です。それだけになると、思考が停止して、カルトと同じ思い込み信じ込む強迫的な信仰?になると思います。
 

 
私は、高校生の時に、聖書を無料でくれる教会があるらしいということで、また個人的な悩みもあって、教会に行き、通い始めて、卒業を控えた17歳で、洗礼を受けました。日本基督教団の佐世保教会というところです。
 
説教について言うと、佐世保教会の牧師も、福岡の牧師も、割と好きなタイプでした。頭ごなしというのは、なかったと思います。でも、何だか誤解されやすく、集団が苦手な私は、転居を機に、教会からは離れています。
 
とはいうものの、聖書は、新約を通読、旧約は、ソロモン以後の歴史など、読んでいないところもあります。ずいぶん年を取りましたが、ずっと未熟です。最近は、聖書も、拾い読みばかりです。
 
熱心に勉強なさっていることが伝わってきます。私のこのレスは、記事にするだろうと思います。生き方の問題ですから、これからも分かち合っていけたらと願っています。ありがとうございます。拝。
 
2021-04-04-22:41

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